• AIを追いかけてるのに、結局いつもChatGPTに戻ってくる

    AIを追いかけてるのに、結局いつもChatGPTに戻ってくる

    「ChatGPTはもう古い」

    最近、この言葉を何回見ただろう。

    SNSを開けば、「次はGemini」「Claudeの方が賢い」「もうChatGPTは終わり」みたいなニュースや動画が流れてくる。

    そのたびに、「マジか、乗り換えた方がいいのかな」って思って試してみる。

    でも数日後、気づいたらまたChatGPTを開いていたりする。

    なんなら、結局いちばん長く使ってるし、これ、たぶん自分だけじゃないはず。


    新しいAIを試すたび、少しだけ疲れる

    新しいAIが出たり、アップデートがあったりすると「今度こそこれかも」って思いつつ、試してみると触った瞬間はちょっと楽しかったりする。

    レスポンス速いとか、画像強いとか、推論すごいとか。

    YouTubeでもXでも、みんな盛り上がって色々な意見を出し合っているから、そりゃ試してみるよね?

    でも数日すると、なんか疲れてきませんか?

    UIが微妙に違うとか、クセが違うとか、急に精度ブレるとか。

    あと地味にしんどいのが、毎回最適な使い方を学習し直す感じ。

    AIを使ってラクしたいのに、AIを使うために頭を使ってる。


    「情報感度が高い人」でいたい

    たぶん、AIを追ってる人って、単純に効率化したいだけじゃなくて「ちゃんと時代についていきたい」って気持ちが強くて、まずは乗り遅れたくない、AI時代に置いていかれたくないのではないだろうか?

    だから、毎日AIニュースを見る。

    新サービスが出たら触る。

    「これ知らないの?」って言われる側になりたくない。

    でも、ずっと追い続けてると、だんだん目的がわからなくなる。

    AIを使うより、AIを追うことが目的になってきたりもする。

    本音では“ラク”が欲しい

    結局、ChatGPTに戻ってしまう理由って、たぶん性能だけじゃない気もする。

    慣れてるし、気軽でなんとなく安心感が強い。

    Claudeは賢いけど、かなり丁寧でちょっと気を遣う、ちょっと先生と話している感じ。

    Geminiはハマると便利だけど、たまに「あれ?」ってなる。

    会話自体を引きずる傾向があるし、なかなかフラットな状態にはなってくれない。

    Perplexityは検索強いと言われているけど、ハルシネーションでいうと、1番厄介な存在。

    その点、ChatGPTは、良くも悪くも雑に使えるうえ、タイムラグがほとんどない。

    このラクさ、結構デカい。



    ChatGPTに戻るのは、負けじゃない

    最近ちょっと思う。

    結局戻ってくるって、悪いことじゃないのかもしれない。

    道具って、“最強”より、“続く”の方が大事だったりするわけで、毎日気軽に使えるChatGPTは、疲れないし、深く考えなくていい。

    それだけで、十分価値がある。

    AI界隈って、どうしても「次へ行け」「もっと新しいものを」って空気が強いんだけど、ずっと最先端を追い続けるのって、普通に疲れる。

    だから、なんだかんだChatGPTを開いてしまう人は、意外と多いと思う。

  • 「カゴに入れる」という決断の重さ

    「カゴに入れる」という決断の重さ

    自動ドアが開くと、かつては少しだけ気分の高揚する場所だったはず。

    並ぶ青果、惣菜の匂い、BGM。

    しかし最近、スーパーの入り口で一瞬、足がすくむような感覚を覚える人が増えているという。

    「また上がっているかもしれない」
    「こっちのメーカーの方が数円安いだろうか」

    私たちは今、買い物そのものに、目に見えない疲労感を抱え始めている。

    計算機を回し続ける脳内

    かつての買い物は、もっと直感的で「今夜はカレーにしよう」と思えば、肉と野菜をカゴに放り込み、少し贅沢をして、福神漬けのちょっと良いやつを選んだり・・・。

    たったそれだけのイベントだったはず。

    それが今や、棚の前に立つたびに脳内で小さな文字盤が高速で回転し始める。

    • 先週は198円だったのに、228円になっている・・・
    • 内容量が20g減っているし、実質的なグラム単価は・・・

    私たちはいつから、スーパーの通路でこれほど高度な算数を強いられるようになったのだろう。

    1円でも安い方を掴み取るための集中力は、仕事終わりの疲れた頭にはあまりにも重い。

    奪われた「なんとなく」の自由

    「値上げ疲れ」という言葉を耳にするようになって久しい。

    でも、本当に疲れているのは財布の中身だけではなく、摩耗しているのは、私たちが「考えること」。

    お気に入りのドレッシング、いつも買っていた食パン、ちょっとした間食のチョコレート。

    これまで「なんとなく」で選べていた日常の定番たちが、すべて「本当に今、これを買うべきか?」という審判の場に立たされる。

    選択肢が多いことは豊かさの象徴だったはずなのに、今ではその一つひとつが、私たちの意思決定のエネルギーを削ぎ落としていく。

    いまではかつての1.5倍から2倍くらいの値段になっていることに驚き、かつてはレシートなんて見向きもしなかったものが、毎度毎度しっかりとみるようになった・・・。

    値札を見るという現代の仕草

    ふと周囲を見渡すと、皆、同じような目をしていることに気づく。

    スマホで熱心にクーポンを探す人、プライベートブランドの棚の前でじっとフリーズしている人、一度掴んだ商品をそっと元の場所に戻す人。

    私たちは今、かつてないほど「値札」と対話しているのではないだろうか?

    商品を吟味しているというよりは、数字に圧倒されている感じ。

    SNSを見れば「スーパーに行くだけでHPがゼロになる」という呟きが、静かに共感を集めていて、それは、ただの愚痴というよりも、現代人が共有する小さな、しかし確実な生活のすり減りの告白のよう。

    楽しかったスーパーのぶらりが、ちっとも楽しくなくなっているのだ。

    カゴの中身をレジ袋に詰め替えながら、ふと思う。

    私たちはただ、今日の夕飯の材料を買いに来ただけなのに、まるで一つの大きなプロジェクトを終えたかのような疲労感が肩にのしかかっている。

    エコバッグを肩にかけ、スーパーの自動ドアを出る。

    夕暮れの風に吹かれながら、明日の夜もまた、あの棚の前で数字とにらめっこする自分を想像して、少しだけため息を飲み込んだ。